yo_greenloveの日記

ぼーーっと書いてます

【自立。】

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私は14歳~24歳までの10年間、
親と暮らしていません。

 

4つ上のアネキと
2人で暮らしてました。
諸事情色々ありますが、
ここでは割愛します。

 

私が24歳のとき、
アネキの結婚が決まって
アネキが家を出ることになりました。

 

そのタイミングで、
オカンと2番目のお父さん
(オカンより15歳年下で私の12歳年上。
なので「にーちゃん」と呼んでました)と
同居することになりました。

 

「10年ぶりに親と住む」ことは、
私にとって、とても憂鬱な出来事でした。

 

なぜなら、私は完全に
「自立」していたんです。
料理・洗濯・掃除・ゴミ出しに布団干し。
もちろんお金の管理まで、
当時の私は
「完璧だ」と思っていました。
あくまでも個人基準ですよ笑

 

なんせ14歳から10年間、
子供だけで生活してきたんですから。
高校を卒業するまでは、
家賃その他はオカンが払ってくれていましたが、高校を卒業した瞬間から、
いやなんやったら専門学校の入学金、授業料・交通費・バイクや車の免許代、もちろんバイクや車。それらの保険に至るまで、
全て、ぜーんぶ!
自分が稼いだお金でやり繰りしたんです。


「18歳から親にお金を出してもらったことは1度もない」ことが
自慢になるくらい「自立」していたんです。

 

ほんで?
10年も経って、親と住む??
はい?
ほんまに言うてるん?

という感じでした(笑)

 

私は同居にあたって、
オカンに条件を出しました。

「一切の世話は焼かないでくれ」

 

食事・洗濯・掃除・ゴミ出しに至るまで、
私の部屋には入らず、
何もせんといて。
別の世帯やと思って。
それが同居の条件やし。
そう伝えました。

 

なんでかって、せっかくみんな出来てるのに、
出来ひんようになるんじゃないかって不安やったんです。

でもオカンは私との約束を初日から破って、世話を焼きまくります。

 

私は、
「ご飯の準備しなくていい。」
「洗濯も置いといて。」
「部屋に入らんといて。」
「なんで掃除したん!?」

「ありがとう」とも言わず、
文句ばかりぶつけてました。

 

なんちゅー
クソ生意気なガキなんでしょうね笑

 

オカンは決まって、
「だぁってぇ~、お母さんやもん」
と笑ってました。

 

半年間。
抗議を続けました。
出来ひんようになりたくないからやめてっ!と。

 

でもオカンが世話をやめてくれることはなく、
私も根負けして、
「しょうがない。
じゃあ今から子供時代を取り戻しますか」
という気持ちになって、
素直に甘えるようになりました。

 

あれから24年。
子供時代の10年間を、
遥かに超える時間を
オカンと過ごせてます。

 

あの頃と変わらず、オカンは
毎日私の世話を焼いてくれます。
晩ごはんを準備してくれているのに、

私が気まぐれに
「うどん食べたかったな~」
なんて言えば、
「よっしゃ作ったるわ」と
気前よく作ってくれます。

 

家に帰れば、
あったかいご飯が待っていて、
エアコンがかかっていて、
ベッドメイクまでしてくれてる。

家事の一切合切をオカンがやってくれているので、ご想像の通り、私はなんにもできないちゃんになりました(笑)

 

永遠に続いて欲しい。と思う反面、
残された時間は、限られてる。
もうそれがわかってる。ふっさふさだったオカンの髪の毛が、もうずいぶん薄くなってきてる。

 

だからこそ、今を大切にしたい。

 

私の朝は、毎日、

「ありがとう」から始まります😊

オカンが朝食の準備をしてくれているから。

 

オカン。
いつまでもいつまでも、
元気でいてください。
いつもいつもありがとう。

 

あなたの子どもで、
ほんまに良かった😊

 

#産んでくれてありがとう

【とりについて】

おじぃちゃんの家は、
いつも動物がいました。

犬、猫、鳥、ときどき金魚。

だいたいいつもいた気がする。

鳥は、セキセインコたち。
真っ白な文鳥たち。
わちゃわちゃジュウシマツたち。

を飼ってました。


鳥の名前は全員

「ぴーちゃん」

おじぃちゃん命名👏✨

わけがわからないので、
ぴーちゃん1号、2号、3号・・と呼んでました。
たくさんいる時で、10~15羽くらいかな?
卵産みますからね🥰

強く記憶に残っている
ぴーちゃん1号は、
「散歩」が好きでした。

小学校から帰ると、
ぴーちゃん1号をカゴから出して
一緒に遊ぶのが日課でした。

ぴーちゃんは、おじぃちゃんが
羽根を切っていたので、飛べません。

今考えたら、めちゃくちゃ残酷ですね。
わかる方いるかな?
羽の先っちょの透明な部分を切るんです。
風切羽と言うらしいです。
今も切るんかな?


飛べないぴーちゃんは、
家の前の原っぱに行くのが好きでした。

カゴから出すと、いつもトコトコ
玄関に向かって歩きます。

その日もいつものように
原っぱに遊びに行きました。

ぴーちゃんは草むらで楽しそうに
草をはむはむしてました。
その風景を見るのが大好きでした。

私がぴーちゃんから目を離した一瞬。
本当に一瞬。目を離しました。
猫が走ってきて
ぴーちゃんを連れ去りました😭😱

大慌てで履いていた靴、石など
投げまくりましたが、
猫はあっという間にいなくなりました。

「ぴーちゃんが猫に取られた‼️😭」と
泣きながらおばぁちゃんに
伝えに走ったのを覚えてます。

晩御飯の準備中だったおばぁちゃんは
包丁を持ったまま

「なんやってー!」と家を飛び出しました。

包丁を持って鬼の形相で
「ぴーちゃん」を連呼する
おばぁちゃんは、ある意味とても怖かったです…
夢に出てきました😭(二次災害)

結局どーにもなりませんでしたが😭

なんだこの悲しい記憶は…


ふと…
思い出しました🤣


文鳥の「ぴーちゃん」5号くらい?は
家の中を自由に飛び回ってました。


名前を呼ぶと颯爽と飛んできて、
指や肩に乗ってくれました。


その日もいつものように、
文鳥のぴーちゃんは自由に
飛び回ってました。

場所はキッチンです。

ぴーちゃんを放したまま
おばぁちゃんと私がキッチンを留守にした
時があって、おそらく10分ほど。

キッチンに戻って、ぴーちゃんを
探すと、洗い桶に張った水に

ぴーちゃんが浮いてました😭😱

水を飲もうとして、足を滑らせたかと…


なんだこの悲しすぎる記憶は😭


皆さんにお伝えできる事があるとするなら…

鳥は散歩に連れてかないで!
洗い桶の水は捨てといて!

名前は別々が良いですよ!
みんな自分やと思って
わやわやなりますから!


以上の3点です👍


ふと…

思い出したんですっ🤣


みんな、生きてる。

ありがと。

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「初めて見たオカンの涙」

うちのオカンは、
底抜けに明るくて、どんな時も前向きに
直球で困難に立ち向かうタイプの人です。

外見はソックリですが、
内面があんまり似てないので、
もっと似てたら良かったのに。
とよく思います。


高校2年生の時、
○引きで補導されたことがあります。

初犯で1発KO。
欲しい物だったかどうかも覚えていません。


さくっと腕を捕まれ、
バックヤードに連れて行かれました。

名前、住所、学校名を聞かれて、
初めてやから警察には言わないであげる。
と言われました。


でも、私が何より、誰より
怖かったのは、オカンです。
「親にだけは知らせないでください。
その代わり警察を呼んでください。」と、
うっかり声に出ちゃった程です。


当時、諸事情があり、私は4つ年上の姉と
二人暮らしをしていました。


母がお好み焼き屋をやっていたので、
学校帰りにお店に寄って、晩御飯を食べて帰る。

朝は食べずにお昼用にコンビニなどで調達する。
という感じだったので、特に不自由は感じていませんでした。

基本的な掃除や洗濯を、
姉と分担してやるといった感じです。
気が向けば簡単な料理を作ったりもしていました。


母は、普段底抜けに明るい人ですが、
一度火が付けば、本当に本当に怖くて、
○引きがバレればどれだけ怒られるか
想像がつかず、なんとか親にだけは
言わないでくれと、何度も何度も頼みました。

でも、補導員さんは、
「そのお願いだけは聞けない。ごめんね」
と言って、無情にもオカンに電話をしました。
当たり前ですが笑

「何もかも終わった…」

そこからオカンが来るまでの時間は
まるで拷問のようでした…


20分ほどして、オカンが部屋に入ってきました。

「怒鳴りつけられる!!」
と思って思わず目を閉じたら、

「うちの子が○引きなんかするはずがない!
何かの間違いに決まってる!!!!」

と言って、オカンが
補導員さんに掴みかかってました。

補導員さんが、
「お母さん、落ち着いてください。
ご本人に聞いてみてください」
と言いました。

オカンが
「ほんまなんか?」と聞いたので、

私は、小さく頷きました。

そしたら、オカンは崩れ落ちて、
その場でわんわん泣き出しました。

同時に、補導員さんに
「申し訳ございません。申し訳ございません」
と。
土下座のような格好で謝ってました。


その光景を目の当たりにした私は、
離婚した時でさえ泣かなかった
オカンが泣いていることに、
ただただビックリして、


同時に、「全てを理解しました。」


当時、子供だけで暮らしていたと書きましたが、
私は中学3年生の時から親と暮らしてないんです。

正確には中学1年生〜2年生までは、
おじーちゃん家で暮らし、
中3に上がると同時に子供だけで、
団地に引っ越したんです。

 

なぜオカンと暮らさなかったかというと、
私たちがおじーちゃん家に住んでいる間に、
オカンは年下の彼氏と暮らしており、
その生活の邪魔をしたくないし、
何より、自由やん!面白そう!という理由で、
子供だけで暮らしたいと言ったんです。

 

もちろん家賃その他はオカンが
払ってくれてました。

 

私は、好んで子供だけの生活を選んだくせに、
心のどこかで、

「オカンは私たちに興味がないんだ」

と、やさぐれた部分がありました。

 

高校生の私は、親と暮らしてないのを良いことに、
友達の家に泊まり放題、
学校に行かないこともそりゃーあります。
単位もギリギリ。
だって家に親いないんだもん。
そんな子は私の他にはいませんでした。

でも、何してても大して怒られることもないから
イコール=「興味がないんだ」
という考えになっていました。
拗ねていた。とも言えます。


でも…
「うちの子が○引きなんかするはずがない!!!」という言葉を聞いて、


私は全てを理解しました。

 

オカンは…
興味がないんじゃなくて、

「信じていてくれたんだ」って。


どれだけ泣いたかわかりません。


あの日のあの経験は、
人生の宝物です。

あの経験がなければ、
今とは違う自分になっていたかもしれません。
正解かどうかは置いといて(笑)


身近な人に、
「ありがとう」と伝えるのは
少し恥ずかしいこともありますが、
キチンと伝える事がとても大切なんだと
学んだ日です😊

皆さんは、こんな経験はありますか?
良かったらコメントください😆

生い立ちを書いてみる④

第四話
【ある日曜日】


なんの変哲もない、普通の日曜日。


オトンを除いた私達3人はいつものように
ちゃぶ台で朝ご飯を食べてました。

そしたら見知らぬおじさんとおばさんが
土足で家の中に入ってきて、
「うん、良い感じやん」などなどと話してます。
すかさずオカンが、
「なんですか人の家に土足で!」と言うと
おばさんが
「私らこの家買わしてもろたんです。
聞いたはらへんのですか?
前金で200万、ご主人に払ってますよ。
1週間以内に出て行ってくださいね」
と。なんだこのドラマのような展開は!
ドラマやったら良いのに!

 

あの家は、
おじーちゃんが退職金で買ってくれた
大切な家でした。


土地、建物。両方の名義をオトンにしたかった
おじーちゃんと、どっちかだけでも
私(オカン)の名義にしてと、かなりやり合ったようですが、そういうものは一家の大黒柱である男がなるもんや!

とおじーちゃんが譲らず
両方の名義をオトンにしたそうです。
その為に、誰に相談もなく、
勝手に売られてしまったんですねぇ。


新築から2年後のことでした。
あーあー。

オトンはお酒だけでなく、
ギャンブルにも手を出して、
借金の返済の為に家を売ったんですね。

 

私が幼稚園に入る頃から家には一切お金は
入れず、お酒とギャンブルに
注ぎ込んでたそうです。


家はオカンが働いてなんとか回していたとか。
なんだこの絵に描いたような不幸は!

 

おじーちゃんは、

どこかで立ち直ってくれるという
期待があったから、離婚を許さなかったという側面もあったようですが、


さすがに娘、孫の住む場所を奪ったことは
許しがたく、ようやく離婚を許してくれたそうです。

オカン34歳
姉貴11歳
私7歳

「与謝野晶子さんと出会った日」

私には、4歳年上の姉がいます。
幸子と書いて、たかこ。と読みます。

 

アネキは小さな頃から泣き虫で、
俗に言う「いじめられっ子」でした。

 

私が小学校2年生の時に、
両親の離婚をキッカケに
転校することになりました。
アネキは転校先でガッツリイジメられ、
いつも泣いていました。

 

その頃授業が終わると、
アネキの教室まで迎えに
行くのが日課になっており、
いつも6年生の教室まで迎えに行って、
アネキと一緒に帰ってました。


迎えに行くと、かなり高い確率で
誰かにイジメられており、
私は体の大きな6年生相手に、
「おねーちゃんをイジメるなー!!!」
と叫んで体当たりしていました。

 

いつしかついたあだ名が「ナイトくん」
アネキよりアネキのクラスメイトと
仲良くなってました。

 

そんなアネキが高校を卒業して、
専門学校に通っていたころに
その人は突然やってきました。

 

アネキはとにかく精神的に不安定な人で、
高校時代も精神病院に
入退院を繰り返していました。
環境の被害者でしかなく、
今思い出しても
とても可哀そうです。

 

その人がやって来る直前も、
アネキの様子が、なんか変やなぁ。
大丈夫かなぁ?とヒヤヒヤしていました。

 

ある日曜日のことです。
寝起きでアネキの顔を見ると、
顔の半分くらいある
大きなサングラスをしてたんです。

 

デヴィ婦人がつけそうなやつ。
私はアネキに、何そのサングラス?
どこで買ったん??
つーか朝やで。と言いました。

 

そしたらアネキが、
「私は与謝野晶子です。夫は鉄幹」

と言いました。
口調も別人のようでした。

 

私は冗談だと思ったので、すぐさま
「何言ってんの?面白くないで!」

と言っても、
聞こえているような聞こえていないような

態度です。

アネキの手がエアーで、
何かを抱えてなでなでしているようだったので、
「何か抱いてるん?」と聞くと、
「うちの犬ですの」と。

 

こりゃー狂った!おかしいわ!
つーか朝だし!とか色々な感情が湧き出ました。

 

与謝野晶子さんは、

私の存在などまるで無視で、
机に向かって、何かを書いてました。
もちろんエアーです。

 

笑けるやら怖いやら、慌てるやら、
いろんな気持ちでグルグルでした。

当時離れて暮らしていた

オカンに速攻で電話して、
「アネキが与謝野晶子になった!!」

と言いました。

 

オカンはすぐ来てくれました。
オカンの前でもアネキはずっと
与謝野晶子さん」だったので、
病院に連れていきました。


精神科です。

病院の先生と話してる時も、
アネキはずーっと与謝野晶子さんで、
「晶子さん」と呼ばなければ返事もしませんでした。
話す内容も、アネキではありません。

 

そのまま入院することになり、

2週間後くらいに
アネキはアネキに戻りました。

 

そして怖いことに、与謝野晶子さんだった
時の記憶がないんです。

 

それにしても、
なぜ「与謝野晶子さん」だったのか?

過去にアネキの口から
与謝野晶子さんの話を聞いたこともないし、
好んで小説を読んでいたわけでもありません。

でも、やけにリアルな鉄幹さんの話し、
飼い犬の話し、
病院でもいつもエアーで
何かを書いていたそうです。

 

兎にも角にもなかなかレアな体験でした。
そしてなぜ「与謝野晶子さんだったのか?」は、
今でも謎のままです。

もしかしたら、私は本物の与謝野晶子さんと
話したんじゃないか!?
ってこっそり思ってます😊
それはそれで😨


若い頃は、不安定だったアネキも28歳で結婚し、すっかり元気になって、
一姫二太郎に恵まれ、
幸せに暮らしているのでご安心を😊


この話しは、身内では鉄板ネタで、親戚で集まったときに、そんなこともあったなぁって懐かしく話してみんなで笑い死にかける用のネタです🤣
もちろんアネキも大爆笑🤣

皆さんは、心霊?のような
体験はしたことがありますか?
よかったらコメントください😆

 

 

 

 

 

 

 

「人生最初のお弁当」

 

私が小学校2年生の時に、

両親が離婚したので、
それからは鍵っ子🗝になりました。
母は昼間は病院で働き、

夜はスナックで働いてくれました。

離婚した後の母の記憶は、

空が白み始めたころに、
「私の布団に潜り込んでくる背中」

くらいしか記憶がありません。
とても暖かかったのを良く覚えています。

中学に上がった頃に、母は独立して、
お好み焼き屋をオープンしました。

ありがたいことに行列のできる繁盛店で、
母はとても忙しく働いていました。

さて、「お弁当」です。

中学までは、私の区域は

学校給食がありました。

が、高校に上がると給食がありません。
私はいつもコンビニで買って行くか、
お昼のチャイムと同時に購買にパンを買いに
ダッシュするかのどちらかでした。

同じクラスの確か5人?くらいのメンバーで

お昼ご飯を食べていたと思います。

誰がいたか1mmも覚えていない

不義理を許してください。

みんなのお弁当は、

お母さんが手作りしたもので、
キャラ弁こそなかったですが、

色とりどりで、見ても美しく、

食べても美味しくて、

みんなが蓋を開けるのをいつも

こっそりと見ていました。


入学から半年が過ぎたころ、
お店で働くオカンに初めて
「かーちゃんが作ったお弁当が食べたいねんなー」
とさり気なく言ってみました。

そしたら快諾してくれ、
「じゃあ来週の木曜日に作ったるわ!」
と言ってくれました!
定休日が水曜だったので、

木曜日という選択だったのだと思います。

 

さて、木曜日。
キッチンのテーブルの上に、
見慣れない巾着袋が置いてありました😊
嬉しくて中を見たら、初めて見る
けろけろけろっぴ」の蓋が見えました!
なぜそのチョイスになったのかは今でも謎ですが💦

中は後のお楽しみに取っておきました。

 

さぁ、お昼休憩です。
ご飯を食べているメンバーには、
お弁当を持ってくると決まった時に、
いつ持ってくるかを発表していたので、
みんな首を長くして待ってくれていました。

 

「平吾の高校生活初めてのお弁当」は
どんなだ!?といった感じです。

 

蓋を開けるのにカウントダウンまで
してくれました!
5・4・3・2・1 オープン!!!

 

蓋を開けた瞬間……
全員が椅子から崩れ落ち、
大声で笑って笑って笑って
死にかけました🤣🤣🤣

けろけろけろっぴの蓋を開けたら…

コンビニのおにぎり🍙が2つ入ってました。
しかも剥いてありました。

 

あまりに騒ぐので、

他のクラスメイトも見に来て、
笑いの輪が広がっていきます。
もう本当に…死にかけてお腹痛くて🤣🤣

あー面白かった🤣

 

みんながおにぎりだけじゃ

お腹ふくれんやろ?と言って、
タコさんウィンナーや卵焼きをくれました😋
みんな、ありがとう!誰か覚えてないけど(笑)

帰ってオカンに、全員が死にかけたんやで!
と言うと、
「ごめーん!作る時間なかってん(笑)
その代わり剥いといたげたやん👍」
と言ってました🤣
逆に迷惑っっ🤣


そこからさらに半年後、
もう一度お弁当を頼んでみました。

今回も快諾!

メンバーも同じ!
記憶にある、けろけろけろっぴ
みんなニヤニヤを隠しきれず、
大きな声でカウントダウン!

今回も!
期待を裏切らず全員が死にかけました🤣
今回は……
白ご飯の上に、スクランブルエッグが
乗っかってたんです🤣🤣🤣
一面真っ黄色!!🤣

あー面白かったーー🤣

その後、私がオカンにお弁当を頼むことは
2度とありませんでした。
言うまでもないですね(笑)

このエピソードは、若い頃
おそらく会った人全てに話し、
絶対に笑ってもらえる鉄板ネタとして、
使いに使い倒しました(笑)
鉄板ネタをありがとう!!

かーちゃん。
たくさんたくさん働いてくれてありがとう。
いつまでもいつまでも、元気でいてください。
どんなときも、大好きです🥰

 

 

 

 

 

犬について


「犬について」

 

私は犬が好きです。

小さな頃から、ずーっと好きです。

 

おじーちゃん宅は、ずーっと犬を飼っていたので、記憶にある最初の犬との出会いは、おじーちゃん宅です。

 

最初の犬は、ジョン。黒色の雑種です。
木でできた自分の家をガリガリガリガリガリガリかじって崩壊させた犬です。
とにかく木をかじってました。

 

次は、コロ。茶色の雑種です。
溝を歩くのが好きでした。

 

次が、みよ。真っ白のスピッツです。
記憶の大半はこの子。
2人で田んぼに散歩に行って、今ではダメですが、首輪からリードを外して好きに駆け回らせてました。
口笛を吹くとちゃんと戻ってくる賢い子でした。

2人隣に座って、夕日を眺めるのが好きでした。

 

今でも良く覚えているのが、
ジョンが老衰で死んでしまったとき、
おじーちゃんがバイクの後ろにジョンをくくりつけて、流れ橋の上から投げ捨てたこと。


コロが死んだ時も、おじーちゃんは同様に
流れ橋の上からコロを投げ捨ててました。

 

泣きながら見送ったのを良く覚えています。

 

20歳くらいの時、初めて飼ったハムスターが死んでしまったので、小さな箱に「ハムやん」を入れて、
ありがとう。楽しかった。安らかに眠ってね。
という気持ちで、流れ橋の上から出来るだけ遠くに投げました。

遠くに投げれば投げるほど供養になると思っていたので、助走をつけて思いっきり投げました。

40mくらいは飛びました。

 

遠くで小さなハムやんは

無事着水したようでした。

手を合わせて冥福を祈りました。

 

後日友達に話したら、
「それ、不法投棄で捕まるで」と言われました😭

動物が死んだら川に流すと思っていたので、
衝撃的すぎて忘れられません…

ちなみにおじーちゃんの職業は、警察官でした😱

なぜか夜中に発表したくなりました🤣